第0期 結成 (1976 - 1977)
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「Negasphere」の記事における「第0期 結成 (1976 - 1977)」の解説
1976年11月23日、茨城県立水戸第一高等学校でのスクールバンド活動を終えた川崎薫は、上京先の吉祥寺のJAZZ喫茶 西洋乞食にて、中学時代の親友でドラマーの高沢悟 (たかざわ さとる) に次期バンド構想を提案。ギタリストに川崎と一緒だったスクールバンド SCRAP の大森政人 (おおもり まさと) を推挙。ヴォーカリストに高沢が友人である木下誠一郎 (きのした せいいちろう) を推薦し、最初期のメンバーが確定。 バンド名は、川崎の提案により Negasphere (ネガスフィア) に決定した。Negasphere というバンド名は、川崎が中学時代にお気に入りだった E・E・スミス の SF 小説レンズマン・シリーズに登場する『負の球体 (ネガスフィア)』から。彼は高校時代 SCRAP の活動をする一方、オリジナル曲を演奏するバンドを高沢とともに実現したいという願望を抱き、ずっと、このバンド名をあたためていた。 現在の川崎はキーボード担当であるが、Negasphere 結成当時、川崎は主にベースを担当。ロックバンドにおける楽器の必要性がまずドラムとベースであること、親友の高沢がドラマーを志したためベースを選択した。なお、Negasphere 最初期には、ベースのコレクターとなり一番多い時期には14本のベースを所有していた。 作曲については、次々と曲のモチーフを提案する高沢のアイディアを、川崎が書き起こすスタイルで多数のオリジナル曲を作成していた。当時の彼らの作曲スタイルはきわめて特異であった。まず、仮想アルバムのトータルテーマがあり、これにそって各曲のタイトル設定がなされ、歌詞を書き起こし、曲をつけるという、通常のバンドではおよそ考えられない順序で作業をおこなっていた。しかも、このころから歌詞は英語という姿勢は一貫している上に、年間で約20曲というハイペースはヴォーカリスト木下の逃亡 (ヤマハ主催の EastWest'77 予選にエントリーするも、当日、木下が会場に現れずに出場辞退。このときの覇者はサザンオールスターズ。) という事態を引き起こした。
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