第二阿房列車
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雪中新潟阿房列車 1953年(昭和28年)2月22日 - 24日、往復とも駿足の上越線急行「越路」による東京 - 新潟の旅行記。豪雪地帯の風景と、当時日本最長であった清水トンネルを体験するため、百閒は窓の曇り取り用にアルコールの小瓶を準備するほどの徹底ぶりを見せ、道中の雪景色の変わり目を楽しみにしていたが、出立の日の東京は既に一面の大雪で、出鼻をくじかれる羽目になる。 なお、新潮文庫版の本文中には長岡駅 - 新潟駅間における描写として「蒸気機関車C59の豪壮な汽笛の音が…」との記述があるが、C59形が同区間を走行した記録は存在しない。 雪解横手阿房列車 1953年(昭和28年)2月28日 - 3月4日、奥羽本線阿房列車で立ち寄った横手への再訪記。旅程は急行「鳥海」の寝台車での単純な往復で、横手での滞在記が主体となる。 春光山陽特別阿房列車 1953年(昭和28年)3月14日 - 18日、山陽本線特急「かもめ」の処女運転(1953年(昭和28年)3月15日)試乗を主体に八代までの旅行記。国鉄当局から処女運転への招きを受け、ひねくれた逡巡の末にこれを受けるまでの経緯が冒頭で語られる。百閒は「かもめ」という列車名が気に入らず、トンネルだらけの山陽本線を走る列車では海もろくに見えない、特急「からす」の方がよかった、と皮肉を飛ばす。 雷九州阿房列車 前章・後章 1953年(昭和28年)6月22日 - 28日、三たびの八代への旅行記。時を同じくして北九州地区を昭和28年西日本水害が襲い、関門トンネルが水没するなどの被害を出しているが、百閒は豊肥本線・日豊本線でのアクシデントも運良く切り抜け、最後は門司駅折り返しとなった急行「きりしま」に乗り込んで、関門トンネル水没前に間一髪で帰京している。
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