第二の航海: 北太平洋と南太平洋
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「ベンジャミン・モレル」の記事における「第二の航海: 北太平洋と南太平洋」の解説
モレルは第二の航海のために、新しい船ターターに乗り組み、1824年7月19日にニューヨークを発って太平洋に向かった。その後の2年間で、ターターはまずマゼラン海峡からブランコ岬(現在のオレゴン州)までアメリカ大陸の海岸線を探検した。その後は当時サンドイッチ諸島と呼ばれていた西のハワイに向かった。そこでは40年近く前にジェームズ・クック船長が死んでいた。その後のターターはアメリカ海岸に戻り緩りと南に辿ってマゼラン海峡に至った。 モレルの日誌に記録されている目撃した出来事の中には、シモン・ボリバルの解放者によってペルーの主要港であるカヤオ包囲戦や、1825年2月に訪れていたガラパゴス諸島フェルナンディナ島での物凄い火山の噴火があった。当時はナーボロー島と呼ばれていたフェルナンディナ島は2月14日に噴火した。モレルの言葉では「天が1つの炎となり、何百万と言う流れ星、隕石と混じり合った。炎はナーボローの頂上から少なくとも2,000フィート (600 m) にも上った」と記した。モレルは、気温が123 °F (51 °C) にも達し、ターターが海に流れ込む溶岩流に接近すると、水温は 150 °F (66 °C) に昇ったと記録している。乗組員の中には熱気で倒れる者もいた。 モレルはまた、カリフォルニアの沿岸で行った狩猟の旅で、地元民との小競り合いに始まったものが、全面的な戦闘に発展し、原住民17人が死に、ターター乗組員も7人が負傷したと言っている。モレルは矢を太ももに受けて、その負傷者の中に入っているとも主張している。サンフランシスコを訪れた時のことについて、「住民は主にメキシコ人とスパニアードであり、怠惰であり、その結果として大変不潔だった」と記している。ガラパゴス諸島を再訪し、オットセイとテラピン(食用カメ)を狩猟した後、ターターは1825年10月13日に緩りとした帰途についた。太平洋を離れるときに、モレルは個人的にアメリカの太平洋岸にあるあらゆる危険性を試し識別したと主張した。ターターは最終的に1826年5月8日に、6,000頭のオットセイを主な荷物にしてニューヨークに戻って来た。この積荷はさらに多くを明らかに期待していたモレルの雇主を喜ばせなかった。「私のオーナーからの出迎えは冷たく不快だった」とモレルは記しており、「ターターは銀や金を積んで戻っては来なかったので、それ故に私のした苦心や味わった危険は何にもならなかった。」と続けていた。
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