第三話 宇喜多秀家
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秀吉が織田家の将として中国攻めを敢行する中で恭順した大名に宇喜多直家がいた。ほどなく直家は病に倒れ死の床につくが、人質として織田家に差し出した息子の行く末を気にかけ、秀吉に養育を頼んで息を引き取る。直家の子は「秀家」と名づけられて秀吉の猶子となり、やがて織田家に代わって天下を取った豊臣家の一員として育てられ、長じて秀麗な容貌を持ち心映えも涼やかな好青年に成長した。自身の卑しい出自に劣等感を持つ秀吉は、秀頼が生まれて後も邪険にせずにこの貴公子然とした若者を可愛がり続けて大封を与え、秀家もその愛情に応えて養父を篤く慕った。しかし貴族の公達としては申し分ないものの、秀家には大名として最も重要な政治感覚が欠落していた。心もとなさを感じつつも秀吉は誰よりも忠誠心の強いこの秀家を五大老の一人に任じ、幼い秀頼の保護を頼んで死んでゆくが、秀家には天下政治の云々以前に自身の家政すら上手く捌く器量もなかった。秀吉の死後、天下簒奪を目論んでいた家康は遺法を平然と破って諸大名を自身のもとに引き寄せ、その野心を露わにし始める。秀家としては石田三成ら反家康勢力とともにこれに対峙すべきであったが、どころか家中の派閥争いを押さえられずに家臣達が大坂で騒乱を起こしてしまい、すでに関ヶ原を想定していた家康はその不祥事につけ込んで処分を下し、宇喜多家の家人を三割方削らせた。百戦錬磨の老練政治家の前では、愚直なまでに豊臣家への忠節を果たすことしか頭にない若造などまったく相手にならない。秀家は関ヶ原では西軍随一の大軍を率いて戦場へ出るものの、戦は始まる前から家康の巧みな外交謀略によって決しており、西軍は無残に敗北して天下の実権は徳川家に移った。関ヶ原終結後、秀家は八丈島へ流されて流人として辛うじて露口をしのぐ窮乏の中で暮らした。そして関ヶ原の大名の誰よりも長く生き、秀頼も家康もとうにいなくなった四十年余りの後、この男は八十四歳で世を終えた。
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