第三期 国家社会主義の提唱
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「高畠素之」の記事における「第三期 国家社会主義の提唱」の解説
高畠は、第一次世界大戦とこれに続くロシア革命の影響を受け、1918年(大正7年)に「政治運動と経済運動」を執筆する。社会主義運動は、単に経済運動(ストライキなどによる革命)のみならず、政治運動=議会進出が必要であることを強調した。この提言は、無政府主義=アナーキズム的色彩の強かった日本の社会主義に大きい波紋を広げた。 この高畠の提言を受け、直ちに山川均・荒畑寒村らが反論を掲げ、しばし論争となった。この頃から、高畠にようやく後年の国家社会主義的傾向が芽生えはじめ、堺利彦とともに軍人・右翼の集会であった老壮会に出入するなどし、売文社の間に微妙な空気を醸し出すことになった。しかし山川らとの論争の後、山川と荒畑は偶然にも『青服』の筆禍事件で禁固4ヶ月に処される。これにより売文社内の勢力関係は一変し、高畠派の圧倒的優位の状況に変化した。 これを受け、高畠は自己の影響下にあった北原龍雄・遠藤友四郎・茂木久平・尾崎士郎らとともに国家社会主義運動の開始を堺利彦に打診する。堺は社会主義の実践活動は時期尚早と判断し、山川・荒畑の復帰後、売文社を分けることを提案し、高畠も了承した。1919年(大正8年)4月、高畠一派の牛耳るところとなった売文社は、国家社会主義の発行所となった。国家社会主義者として世に出た高畠は、その没年に至るまで、主として『資本論』の翻訳に時間を費やした。この時期の高畠は以下の三つの側面がある。
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