競馬中継転向後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:21 UTC 版)
入社3年目の1971年に『プロ野球ハイライト』が終了。その頃、先輩である長岡一也から「これから短波放送で生きていこうと思ったら、絶対に競馬をやるべきだ!」と強く勧められて競馬中継の担当に加わる。しかし、当時まだ社会的な認知度が低かった競馬に対して好印象を持っていなかった事に加え、競馬実況研修を受けた際のあまりの難しさに「これはとてもできない」と感じてしまったため、競馬中継の仕事に対する姿勢は消極的で、ついには競馬場に向かう電車の中で何度も溜め息をついてしまうくらい嫌いになっていった。これに業を煮やした大先輩の早坂昇治は、彼に競馬場への出入り禁止を言い渡す。この一件で奮起した彼は、長岡を通じて早坂に謝罪し、再び競馬中継に携わるようになる。実況の方も当時第一線で活躍していた早坂昇治・田島喜男・小林皓正・長岡一也といった先輩達から厳しいチェックを受け、次第に頭角を現すようになる。そして1972年秋に結婚し、翌1973年には長女が誕生する。その頃には競馬中継でも実況ローテーションに加わるようになっていった。 1974年3月31日、初めて重賞競走である第24回ダイヤモンドステークス(勝馬:ゴールドロック)を実況する。これは彼が大阪支社へ転勤が決まったことに対する餞別実況だった。大阪支社勤務時代は中継・取材と競馬の仕事が中心で、同世代の北野守や藤田直樹の存在も良い刺激となり、この時代が「自分自身にとっていちばん充実し、成長した時期」と懐述している。なお、大阪へ転勤した1974年の秋には、クラシックレースである第35回菊花賞(勝馬:キタノカチドキ)の実況担当に大抜擢される。その2年後の1976年春に東京本社に戻る事になるが、その餞別として今度は第36回桜花賞(勝馬:テイタニヤ)を実況している。
※この「競馬中継転向後」の解説は、「白川次郎」の解説の一部です。
「競馬中継転向後」を含む「白川次郎」の記事については、「白川次郎」の概要を参照ください。
- 競馬中継転向後のページへのリンク