立地・構造・遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/03 18:42 UTC 版)
教塚古墳は、仙台平野を流れる名取川の左岸(北岸)に弥生時代から水田が広がる富沢遺跡・山口遺跡の中にある。周辺の北から北西にかけては丘陵の縁にそって裏町古墳など直径20から50メートル規模の古墳が、北東か南東方向には低地中には五反田古墳・大野田古墳群など中小の古墳が多数築かれた。 調査時までに墳丘がかなり破壊されていたため、正確な大きさは不明だが、発見された周溝の曲がりから、直径20メートルから約40メートルと推定される。高さは1メートル以上だが不明である。 1985年の発掘では、残存墳丘の中央を探ったが、主体部は見つからなかった。墳丘の外側に溝があり、発掘調査報告書はこれを周溝としたが、これを別の溝とみて周溝なしとする見方もある。 円筒または朝顔形の埴輪があったが、形象埴輪はなかったようである。
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立地・構造・遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/15 14:45 UTC 版)
城跡は仙台平野を流れる広瀬川の後背湿地にある。現在の地理では、仙台の中心部(仙台駅)から南東に9.5キロメートル、広瀬川から北東に3キロメートルで、霞の目飛行場の南に接する。 現地には「館」「館西」「館南」の地名がある。江戸時代に作られた『仙台領古城書上』に、4方100間とあり、20世紀半ばまでの集落全体に相当するところが城の範囲ではないかと思われる。東西約400メートル、南北約300メートルである。 1970年前後の『仙台領内古城・館』によれば、北西部に土塁と溝の跡が断続的に残り、土塁跡は北西端で二重になっていた。残存土塁の高さは内側で最大約5メートル、外側で最大1.5メートル。二重土塁の間の濠は約10メートルあった。以前は外側土塁の外にも濠があったと伝えられていた。 このうち北辺のものは1985年(昭和60年)の調査時点でも土塁状の高まりと堀跡らしきくぼみとして残っていたが、西よりのほうは崩されてしまった。この発掘調査では、北西端に平行して走る溝2本が見つかり、内側と思われる溝については直角で交わる北西端も判明した。発掘調査されたのは内側の溝の西辺の2箇所だけで、上端幅5.9から8.0メートルで、下端幅1.4から1.6メートル、深さ1.9から2.3メートルで、壁の傾きは約45度あった。地表に残る土塁とくぼみの延長は、この北西端につながるようである。遺物としては、1985年の調査で中世の陶器の小破片2つが見つかった。
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