空与守欣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 00:01 UTC 版)
播磨国明石出身の僧。「空与(空與)」は「空誉(空譽)」とも表記される。後藤基次(又兵衛年房)の叔父であるともいう。7歳(数え年、以下同)のとき、十輪寺(兵庫県高砂市)雁高上人のもとで剃髪、16歳の時に禅林寺(京都府京都市)で修行、20歳にして浄土宗の教旨・開祖の旧法などに広く通じ、儒学においても人より優れていた。25歳のとき帰郷。文芸のほか、武芸にも志があり、生まれながらに優れた素質を備えていたため、その上達が早かったという。天正15年(1587年)、黒田孝高が中津に移ったときはこれに従い、中津に合元寺を開基、文禄年中は孝高あるいは長政の軍旅に同行して朝鮮に渡った。黒田孝高側近の連歌好士であり、孝高・長政と連歌や茶事での同座も多い。。慶長5年(1600年)ごろ、如水・長政に従って福岡に移り、智福寺の住持となる。その後の事績について詳しいことは分からないが、「宗湛日記」を見ると、慶長7年(1602年)、慶長12年(1607年)、慶長15年(1610年)に神屋宗湛の茶会に同座し、後者の2回は黒田長政も席を共にしている。また、慶長14年に黒田職隆の法要を智福寺で執り行った際には、その画像に賛を入れたという。慶長16年(1611年)8月6日入寂。入寂に至る経緯について諸説あるが、いずれも一次史料による確認がとれず、また矛盾点が多いため否定されている。「筑前国続風土記拾遺」によれば、弟子の舜道が開基した浄念寺に墓所および位牌・木像があり、位牌には「智福寺住空誉守欣大和尚」と記されていたという。なお元禄年中(1688年 – 1704年)、空与は浄念寺の鎮守として勧請され、「智福権現」として祀られている。
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