秦・漢代
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秦・漢代では国家の財政を管理し、後に朝廷の物資の管理を行うようになった。元来は治粟内史と称したが、紀元前143年に前漢の景帝により大農令とされ、紀元前104年(太初元年)に武帝により大司農と改称された。新朝が成立すると羲和とされ、後に納言と改称されたが、後漢が成立すると再び大司農に戻された。武帝の時代以降は、九卿の一つとされた。 この時代は財政を管轄し、王朝における財政を主管し、皇帝の財産を管理する少府と並ぶ存在であった。属官には太倉(穀物の管理)、均輸(物資供給)、平準(物資価格の調節)、都内(国庫の管理)、籍田(皇帝の直轄地の財政管理)の5令が設置された。また武帝が塩鉄の専売を開始すると、その管理も職掌に追加されている。 漢末以降になると、財政は尚書の主管となり、また各種財政・物資を管理する官が設置され、大司農の職掌は縮小されていった。
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秦漢代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 07:27 UTC 版)
紀元前106年(元封5年)、漢の武帝が全国を13州に分割し各州に刺史を置いた際、現在の河南省の大部分と安徽省の一部にあたる地域を豫州として、潁川・汝南・梁・沛・魯の5郡国を属させた。 前漢滅亡後の混乱期には、軍閥の劉永が豫州に割拠したが、光武帝に攻め滅ぼされた。後漢に入って譙を州治とした。後漢末の混乱期になると、軍閥の曹操が献帝を豫州の許県に移住させ、この地を都とした。
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