秀宗の入部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:34 UTC 版)
慶長19年(1614年)12月28日、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから、宇和島藩が正式に成立した。秀宗は戦国の世に「独眼龍」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子である。秀宗ははじめ政宗の世子であったが、天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り、また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって、秀宗はその立場が問題になった。このため、政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し、大坂冬の陣で政宗と秀宗がともに徳川方として従軍すると、幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えた。宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶ」ように命じられた。ただし、幕府の有力外様大名統制政策の一つで伊達家を東西に分断し、また豊臣家に近い秀宗を僻遠の四国に遠ざける必要があったため、ともされている。秀宗入府のときの家臣団は米沢時代の「伊達57騎」の中から選ばれたものだったため、仙台藩とは直接関係がない成立だったが、仙台藩は支藩と主張し、特に秀宗の時代はもめごとが絶えなかった。なお、この57騎は政宗が選抜したといわれる。
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