秀宗の治世と支藩伊予吉田藩の誕生
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「宇和島藩」の記事における「秀宗の治世と支藩伊予吉田藩の誕生」の解説
宇和島藩の藩政は秀宗期にほぼ確立した。ただし、肝心の秀宗は寛永14年(1637年)に中風に倒れ、実際の藩政は次男で継嗣の宗時が担当した。なおこのため、宗時は宇和島藩の第2代藩主と見なされることもある。宗時は寺社造営、植樹、領内検地を実施し、この検地を基にして定免法を採用し、さらに家臣の知行を従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米現物支給)に移行した。しかし承応2年(1653年)に宗時は早世し、弟の宗利が継嗣となる。 宗時の死後、秀宗の五男で宗時と宗利の異母弟にあたる宗純が秀宗による3万石のお墨付き(分知状)を持ち出し、宇和島藩では和霊騒動以来の騒動が起こった。これには秀宗の縁戚で幕府の宿老である井伊直孝、仙台藩の実力者伊達宗勝を巻き込み、さらに宗純や配下の家臣らによる陰謀などもあったとされる。結局、直孝の説得により宗利が折れざるを得なくなり、宗純に3万石を分知して伊予吉田藩を創設した。だが、吉田藩領の主要部分は肥沃な穀倉地帯の上、飛び地を有していたために宇和島藩との境界線が複雑になり、領地の帰属をめぐっての争いが絶えなかった。宗利は吉田藩創設にあたり、高禄の家臣を宗純に押し付けるという報復に出たため、両藩の反目は長く続くことになる。 明暦3年(1657年)7月に秀宗は隠居し、宗利が正式に第2代藩主に、8月に宗純が正式に伊予吉田藩3万石の初代藩主となった。
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