福岡藩主・黒田氏
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この黒田氏は、元々は武蔵七党の一つ丹党の末裔である中山氏の出身である。中山氏は戦国時代後北条氏に仕え、後北条氏が滅亡した後には、中山照守らが徳川氏に属し、ある一族は旗本となり、また別の一族は水戸藩の附家老となった。 近江国出身で徳川家康に仕えた黒田直綱は勲功を挙げたが二十代半ばで若くして没し、これに近藤用勝の六男黒田用綱を養子として家名を存続させた。上野館林藩主徳川綱吉(のち5代将軍となる)の付家老として配属され3,000石を領した用綱には実子がいたが、養子として外孫に当たる直邦(中山照守の曾孫)を迎えた。直邦は儒学者の荻生徂徠の弟子でもあり、のちには名君と呼ばれ、その人格も高く評価された。時の将軍綱吉にも気に入られ、舘林藩が幕府に再吸収された際幕府直臣となり、小納戸役や小姓を務め、1700年(元禄13年)1万石を領して黒田家は大名に列した。その後も奏者番と寺社奉行を兼任するなどし、1703年(元禄16年)常陸下館藩主1万5,000石となり、次いで上野沼田藩主2万5,000石、さらに加増を受けて3万石の領主となる。1742年(寛保2年)、直邦の養子の直純のとき上総久留里藩3万石に転封となった。藩財政には苦しみながらも、以降久留里藩主として明治まで存続する。なお上述の福岡藩主黒田氏とは酒井家を通じ血脈を受け継いでいる。 明治維新後、黒田家は子爵に列せられた。菩提寺は中山氏と同じ、埼玉県飯能市飯能の能仁寺。
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