神武天皇陵・綏靖天皇陵との関係
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「四条古墳群」の記事における「神武天皇陵・綏靖天皇陵との関係」の解説
上:神武天皇陵下:綏靖天皇陵 四条古墳群に近接する天皇陵として、7号墳の南100メートルの地に第2代綏靖天皇陵に治定される丘陵「塚山」(北緯34度30分2.71秒 東経135度47分21.65秒 / 北緯34.5007528度 東経135.7893472度 / 34.5007528; 135.7893472 (塚山(綏靖天皇陵)))が、そのさらに南南西約350メートルの地には初代神武天皇陵に治定される丘陵「ミサンザイ」(北緯34度29分51.04秒 東経135度47分16.67秒 / 北緯34.4975111度 東経135.7879639度 / 34.4975111; 135.7879639 (ミサンザイ(神武天皇陵)))がある。ただし、現在の神武天皇陵・綏靖天皇陵は幕末の治定によるものであり、塚山を神武天皇陵に比定する説も古くから存在する。塚山・ミサンザイとも現在は天皇陵に治定されているため、考古学的詳細は明らかでない。塚山は直径約30メートルの墳丘を持つことから円墳であると見られ、その場合は四条古墳群の構成古墳の1つになる。またミサンザイも、埴輪・須恵器等が確認されたことから元々古墳であった可能性があり、四条古墳群の構成古墳であった可能性もある。 文献上では、『日本書紀』天武天皇元年(672年)7月23日条において、天武天皇が「神日本磐余彦天皇之陵」に馬や兵器を奉ったと見え、藤原京造営以前から神武天皇陵が存在したことが知られる。一般に神武天皇は始祖王として創造された人物とする説が有力的であるため、一説には天武朝頃に始祖王陵を創造する必要が生じ、当地に元からあったミサンザイ(または塚山)が削平されずに転用されたと推測する説があり、その始祖王陵創造と藤原京建設計画に関連性をみる説もある。 なお神武天皇陵の陵域に関しては、元々は大窪寺(現在は廃寺)の寺域であったとする説もある。この説では、神武天皇陵の治定前にあった小丘が方形の土壇状であったということや、周辺の「塔垣内」の字名から、その小丘が本来は大窪寺の塔基壇の一部であった可能性が指摘される。なお、大窪寺自体を神武天皇陵の陵寺や墓辺寺としての開基とする説もある。
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