短命国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:25 UTC 版)
「リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国」の記事における「短命国家」の解説
リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国の誕生は、リトアニアでも白ロシアでもまったく歓迎されなかった。とりわけ白ロシア人にとって、リトベル共和国の誕生はリトアニアによる白ロシア併合として理解され、白ロシアの民族主義を戦略的に悪用したものとして批判の対象になった。なかでも白ロシアの民族主義者Zmicier Zhylunovichは抗議のためにその地位を放棄した。しかしながらモスクワは統合に固執し、統合はAdolph Joffeの監督によって着々と進められた。Joffeによって選ばれたリトベル共和国政府の閣僚はVincas Mickevičius-Kapsukasを議長(首相に相当)としたが、白ロシア人は含まれていなかった。政府の財政はもっぱらロシア=ソビエトによる融資によって支えられていた。歴史家らはこの国家の建設を「人工的」あるいは「虚構」であると指摘している。 当初、リトベル共和国の首都はヴィリニュスに置かれていたが、4月にはヴィリニュスがポーランド軍のヴィーナ攻勢によって包囲されたため、ミンスクに遷都した。 ソビエト・ロシアを率いていたウラジーミル・レーニンはポーランド人の共産主義者Julian Markhlevskiを通じてポーランドとの和平交渉を始めることを望み、1919年7月17日にはリトベル共和国の解体を宣言した。ミンスクはポーランド軍によるミンスク作戦によって失陥しており、実体を失った共和国政府は8月にスモレンスクに疎開したが、25日には解散を余儀なくされた。。7月後半の時点でリトベル共和国の領土はポーランド軍、三国協商、リトアニア評議会(タリーバ)、そしてドイツによって占領されていた。
※この「短命国家」の解説は、「リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国」の解説の一部です。
「短命国家」を含む「リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国」の記事については、「リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国」の概要を参照ください。
- 短命国家のページへのリンク