真玉橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 23:21 UTC 版)
「真珠湊碑文(まだまみなとひもん)」(沖縄戦で破壊されたが、2000年代に再建された)によれば、真玉橋が最初に架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王の1522年である。その目的は1.日常の政治目的(按司などの使用)、2.城(おそらく真玉橋の南側にあった豊見城(とみぐすく))と水(水害)の保護、3.有事の際に島尻地域の軍勢を那覇港に集結させるため、であり首里と沖縄本島南部(島尻地域)を結ぶ真珠道(まだまみち)の一部として建造された。初代の橋は木造であった。 真玉橋が石造橋となったのは第11代尚貞王の1708年のことで、5連のアーチ橋が完成した。当時の琉球国内では、1451年に建造された長虹堤に続く石造アーチ橋であったと考えられている。橋長約38m、幅員約4.8mで、両端のアーチ橋は無名だが、中の3つのアーチ橋は南からそれぞれ「世持橋」「コモコ橋」「世寄橋」と命名されていた。その後1837年に大改修されて琉球王国消滅後も存在していたが、1945年沖縄戦の際退却する日本軍によって破壊された。 戦後米軍によって鉄橋が、さらに1963年には琉球政府によってコンクリート橋が架けられていたが、2002年に再びアーチ橋として架橋された。この架橋工事の際に旧アーチ橋の遺構が発見され、現在も国場川の両岸に保存されている。 橋名の「まだま」とはおもろ語の褒め言葉であるという。
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