直接の軍事的影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/15 14:40 UTC 版)
「ヴァールブルクの戦い」の記事における「直接の軍事的影響」の解説
連合軍はヴァールブルクにおけるこの戦いで士官66名と兵1,173名を失った。その中で、戦いに参加したのはわずかな歩兵連隊とグランビー卿の騎兵隊のみである 。「マクスウェル」擲弾兵連隊だけでも240名を失っているが、「ドゥーラット」擲弾兵連隊の損害も大きかった。グランビー卿の騎兵隊は590名を失った。すなわち、戦没した軍人およそ1,200名の内、830名以上がイギリス人だったのである。ムイ伯のが失ったのは、彼自身の報告に拠れば4,203名であり、士官はその内の240名であった。その中で捕虜となったのは士官78名と、兵2,100名である。また連合軍は大砲12門、弾薬を積んだ荷車28台と軍旗10本を鹵獲した。 7月31日の朝、ブロイ元帥は連合軍主力の出撃を知る。危険に晒されたムイ中将の軍団の陣地を心配しつつ、彼はフォルクマールゼン付近の「サン・ペルン」擲弾兵連隊と、ギュルシー伯爵中将率いる歩兵3個旅団をヴァールブルクへ差し向けた。しかしこれらは遅きに失し、ムイ軍団の残存部隊を収容するのがやっとであった。しかし連合軍の出撃は、フランス軍にカッセルを占領する好機を与えた。キールマンスエッグ伯は事前の打ち合わせ通り撤退し、翌日までヴェーザー川の対岸へ退避していた。それに対してブロイ元帥はディーメル川へと反転し、同地のグランビー卿は指揮下の部隊をフランス軍による圧迫から退避させた。8月4日にはゲッティンゲンもフランス軍の手に落ちる。ヴェルサイユの王宮では、敗報が人々の無理解と怒りを買った。特に陸軍大臣のベル=イルは感情を害する。誰よりも責任を問われたのは、ムイ伯であった。彼は軍の指揮権を剥奪されると思われたが、同時に届いたカッセル占領の知らせは政府要人の感情を和らげたので、個人的責任を追及されずに済んでいる。 戦略的には、この戦いは連合軍を巡る状況にほぼ改善をもたらさなかった。連合軍は依然として守勢に立ち、障害となる大きな川に守られてはいたが、結局はヘッセンの失陥が政治的に重大な損失となった。カッセル要塞は翌年から終戦まで、フランス軍の策源地となる。それでもこの戦いは短期的な視点から見れば、少なくともヴェストファーレンの防衛に成功したフェルディナント公の、明白な努力でもあった。
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