百詩篇補遺
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「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」の記事における「百詩篇補遺」の解説
百詩篇補遺 (Les Suppléments aux Centuries)とは、その名の通り、百詩篇集に当初含まれていなかった四行詩のことである。第6巻100番、第7巻43、44、73、80 - 82番、第8巻番外1 - 6番、第10巻番外詩(版によっては「101番」)、第11巻91、97番、第12巻4、24、36、52、55、56、59、62、65、69、71番の計27篇を指すのが標準的である。これ以外にジュール・マザランを陥れるために偽造された詩篇などを含める論者もいる。 第6巻100番と第11・12巻の補遺は1594年にシャヴィニーが公表した。シャヴィニー自身は発表に際してこう述べていた。 彼(=ノストラダムス)は予言の12の百詩篇を書いた。それは四行詩で簡潔にまとめられたもので、彼はギリシャ語で Propheties と名付けた。そのうち、7巻、11巻、12巻は不完全なものであって、11巻と12巻は長らく閉じ込められ、今なお時の悪意にさらされているが、我々はそれらに門戸を開いた(=それらを公開した)。 これらの詩篇の真偽については、議論が分かれる。ちなみに、第11巻以降の詩で、シャヴィニーの紹介に含まれていなかったものを紹介する者たちもいるが、それらは疑わしい。たとえば、アメリカの信奉者アーサー・クロケットは、ノストラダムスが晩年を過ごした家の地下室から新発見の四行詩群が発見されたと喧伝しており、日本でもそれを本物であるかのように紹介した文献がいくつも存在しているが、発見時の状況説明の不自然さや、文体・表現の不自然さなどからすれば、偽作であることは明らかとされ、海外の実証的論者も一蹴している。 第7巻73、80 - 82番と第8巻の番外詩は1561年ごろにパリで出された海賊版の『予言集』で初めて登場したと考えられている。第7巻73、80 - 82は1561年向けの予兆詩(後述)を流用したものであることが明らかになっているが、第8巻番外詩は出典不明である。 第10巻番外詩は「1568年版以降に付け加えられた詩」という題で1605年版の『予言集』で初めて登場した。この詩とよく似た句が、1572年にアントワーヌ・クレスパンが出した『国王とサヴォワ公妃に仕える占星術師の予言集』に登場している。他にも、エチエンヌ・タブーロの『雑集』(1588年)などにも、類似の詩篇が収録されている。 第7巻43・44番は、早ければ1610年代、遅くとも1643年までに、リヨンで付け加えられた。政治的な意図を明確に感じさせる内容の上、韻律が他の四行詩と異なっている。刊行年が明記されている最古の版は1627年リヨン版であり、これを初出とする場合、その年のラ・ロッシェル攻囲に関連した偽作の可能性が指摘されている。
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