白井線の開通(1974年頃〜)
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「東洋バス」の記事における「白井線の開通(1974年頃〜)」の解説
ここまでの路線は大和田〜岩戸、大和田〜幕張という2つの路線を母体にし、主に今の八千代市街を中心に発展してきた。しかし、昭和40年代末より路線が他の地域に拡がるようになってきた。それがこれから述べる白井線である。 白井線は1974年頃開通。正確な記録は見つかっていないが、「広報やちよ」および『印西町資料集』(印西市立図書館にあり)によれば、同路線は1974年以降から大和田駅〜白井で運行されているという記録が残っているが、それ以前については記録がない。 「広報やちよ」によれば、1969年11月下旬〜1970年10月下旬まで神尾橋が架け替えのために通行止めだったため、この路線は運行できない。この路線の開通により、神尾橋より先、当時の印旛郡)印西町(現印西市)の船尾、武西地区および白井町(同白井市)の谷田、神々廻、白井地区に至るようになった。 これらの地区は当時の京成電鉄(のち、この地域に関してはちばレインボーバスに移管)が、既に昭和40年代以前より神崎線の支線として船橋駅〜神崎〜武西という路線および草深線として木下駅〜天王前〜開拓事務所前(現・原青年館、と書いたが現存するのか不明)を運行していた。『草深三百年史』(現在、同書は『千葉ニュータウン前史』になっている。)によると、1970年に草深線が改変され、武西〜神崎〜船穂(船尾)車庫〜天王前〜開拓事務所前という路線になった。その後、1973年に開拓事務所は解散しているので、この路線はその時点で存在意義を失い廃止になったらしい。 以上より、1973年または1974年頃に東洋バスが京成バスの廃止区間(神崎(=町田)〜武西)を引き継ぐ形で大和田駅〜白井を開通させた。『印西町資料集』によれば、その当時は大和田駅〜白井便が2往復で、大和田〜船尾(=船尾小学校)便が3往復とのことである。なお、1979年には船尾便の全便が武西まで延長されている。なお、東洋バスはこの付近に武西という停留所と、武西の一つ西に武西十字路という停留所を設けていたが、京成の武西停留所がどこなのか等、詳しいことは不明である。 また、白井線の開通ののち、佐倉市への乗り入れも行われた。大和田駅〜下市場〜上志津入口〜志津駅線がそれである。これも詳しい時期こそ不明であるが、京成の志津線が上志津入口(国道296線上、志津駅付近より200mほど西)〜勝田台駅間を区間廃止、すなわち京成の志津線が大和田駅〜国鉄佐倉駅間を走っていたものを勝田台駅までに短縮し、その後さらに上志津入口までに短縮した際に、勝田台駅(栄町)〜上志津入口間の路線が無くなってしまうため、これを東洋バスが引き継いだ。
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