発想法としての人生観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 23:14 UTC 版)
人生観にもさまざまなものがあり、人は意識的に人生観を選ぶことで自分の発想や行動を変えることもできる。 飯田史彦によると、人生を価値あるものとして認識するためには、人生で生じる様々な出来事に対して、できるだけ多様な意味解釈が可能になるような人生観を選ぶ必要がある、とのことである。例えば “死 = 全ての終わり”などと見なしてしまう人生観よりも、「死 = 異なる世界への旅立ち」という人生観を選んだほうが、人生を「死後の自分」まで含めて考えることができ、ものごとをより長期的な視野でとらえることができるようになるという。また、さらに「死 = 異なる世界への旅立ち + 次の人生の始まり」という人生観でとらえると、さらに長期的な視野でものごとをとらえることができるようになる、とも飯田は指摘している。 最も人生の意味を見出しにくい人生観というのは、“全ての出来事は偶然の積み重ねにすぎない”などと見なす人生観である、と飯田らは指摘している。“全ては偶然”などと考え始めては、人というのは“どうせがんばっても、結果は偶然だ”という思いにとらわれてしまうことになり、“努力しても無駄だ”とか“努力しなくても何とかなる”などというネガティブな観念にとりつかれ、「頑張ってみよう」「正直に生きてみよう」といったような気力が出てこず、ポジティブに生きられないのだ、と飯田は述べた。 せめて、「人生は一度きりであるが、その人生の中では何らかの法則が働いている」という人生観を持てば、人生で起きるさまざまな出来事について意味づけができるようになる、とも飯田は指摘している。「人生は単なる偶然の積み重ねではない。自分の発言や行動が原因となり、必然的な結果がもたらされるのだ」と考えると、人というのは「望ましい結果を実現するためにがんばるぞ」という気力が湧いてくるものなのだと飯田は言う。 飯田は、人生について最も豊穣な意味づけを可能にするのが、「自分たちは、ある法則のもとで人生を何度も繰り返しながら成長している」という人生観だとしている。この人生観を採用すると、「今の人生は、次の人生の下地となるものなのだから、今回の人生を日々大切に生きよう。そうすればその努力は次の人生に反映されるのだ」と希望を持って努力することができる。また、この人生観は、人生の状況を冷静に客観視して、怒りなどの破壊的な感情から抜け出すことができるという効用もある。例えば「今の自分の親は、以前の人生では反対に自分の子供だったのかも知れない」とか「現在の配偶者は、以前の人生では反対の立場の役をまっとうしたのかも知れないし、次の人生でも共に生きて互いを成長させあう人なのかも知れない」「いま憎く思えるあの人は、実は前の人生では無二の親友だったのかも知れない」といった見方ができるようになるといったような例を飯田史彦は挙げている。このように考えることで、目先の出来事に埋没して感情的になってしまっている状態から抜け出て、高い視点から広大な視野でもって、自分の人生を眺めることができるようになる、というのである。 飯田は、上記のような人生観はスピリチュアリティと呼ばれており、「スピリチュアリティというのも、あまたある人生観のひとつであり、人生を前向きに生きるための思考法である」と考えることで、学校教育の場においても安心して ひとつの道具・思考法・発想法として用いることができるようになり、生徒たちに人生を前向きに歩んでもらうためにそれを活かすことができる、とした。
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