田建とは? わかりやすく解説

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田建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/27 18:22 UTC 版)

斉王 田建
田斉
王朝 田斉
在位期間 前264年 - 前221年
都城 臨淄
姓・諱 田建
襄王

田 建(でん けん、生没年不詳)、または斉王建(さいおう けん)は、中国戦国時代の最後(第8代)の君主(在位:紀元前264年 - 紀元前221年)。建。父は襄王

生涯

襄王19年(紀元前265年)、襄王が死に、子の建が即位した。即位当初は母親である君王后中国語版摂政をし、輔政していた。

斉王建5年(紀元前260年)、の長平(現在の山西省高平市付近)を攻めた。趙は糧食が尽き、斉に穀物を求めたが斉は拒否した。

周子中国語版は、「趙は斉にとって防壁であり、歯にとっての唇のようなものです。唇を失えば歯は寒さに晒されます。今日、趙が滅びれば、明日、災いは斉に及ぶでしょう。義によって亡国を救い、威によって秦の軍を退ける。これをしないで穀物を惜しむようでは、国の大計を立てる者として誤りでございます」と諫言したが、斉王建は聞き入れなかった。

結果、秦軍は長平の戦いで趙軍40余万を殺害し、邯鄲を包囲した[1]

斉王建16年(紀元前249年)、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した。后勝はから賄賂を受け取り、多くの賓客を秦に遣わした。秦はこれらの賓客にも賄賂を与え、ことごとくを秦の間者とした。斉王建は后勝や秦に買収された臣下たちの主張を鵜呑みにし、軍事を強化せず、秦を攻める合従軍にも加わらず、五国()の滅亡を傍観した[1][2]

斉王建44年(紀元前221年)、前年に燕が滅亡し五国が滅びると、斉王建と后勝は秦が侵攻することを恐れ、軍を西方の国境に配置した。秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、燕から南下し、斉の首都臨淄へ侵攻した[3]。秦軍が臨淄に入った時、民は誰一人抵抗しなかった。斉王建は降伏し、斉は滅亡した(斉攻略[1][4]。ここに秦は天下を統一した[3]

その後、斉王建は身柄を共(現在の河南省新郷市輝県市)に移され、の林の中に幽閉されて餓死させられた[4][5]

始皇帝没後に秦が弱体化すると、斉王建の弟である田假が挙兵して斉王になった。また孫の田安も済北王になって斉を再興したが、内紛により田栄に殺害された。

逸話

斉王建が秦に降ろうとした時、雍門(臨淄の西門)の司馬が進み出て、「王になられた理由は、社稷(国家)のためでしょうか?それとも王個人のためでしょうか?」と言った。斉王建は「社稷のためだ」と答えた。司馬は、「社稷の主たる王であるなら、なぜ社稷を捨てて秦に降ろうとするのですか?」と諌めた。これを受け、斉王建は車を引き返して戻った。

即墨大夫は斉王建が諫言を聞き入れたのを見ると、望みがあると考え、すぐに謁見し、「斉の国土は数千里に及び、武装した兵は数百万を数えます。三晋(韓・魏・趙)や楚の大夫たちはみな秦に仕えることを望んでいません。これらを集めて百万の軍勢を与え、秦に奪われた旧領を回復させれば、斉の威は再び高まり、秦を滅ぼすことも可能です。天下を統治する在り方を捨て、秦に仕えるなど、大王としてあるまじきことです」と進言した。しかし、斉王建はこれは聞き入れなかった。

秦は使者として斉の客臣の陳馳を遣わし、斉王建に五百里の封地を与えると約束した。この勧告を受けて斉王建は降伏し、斉は滅亡した。斉の人々は、斉王建が奸臣や客臣の言を信じて国を滅ぼしたことを怨み、こう歌った[4]

松耶柏耶?住建共者客耶?

松であろうか、柏であろうか? 建を共に住まわせたのは客であろうか? — 『史記』 田敬仲完世家[1]

脚注

  1. ^ a b c d 史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六
  2. ^ 戰國策・卷十三・齊策六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。
  3. ^ a b 『史記』秦始皇本紀”. ja.wikisource.org. 2025年8月24日閲覧。
  4. ^ a b c 戰國策・卷十三・齊策六》:齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫與雍門司馬諫而聽之,則以為可可為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晉大夫,皆不便秦,而在阿、鄄之間者百數,王收而與之百萬之眾,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣;鄢、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可 立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。秦使陳馳誘齊王内之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」
  5. ^ 資治通鑑 秦紀卷七》:齊王建也死於流放之地。王賁自燕南攻齊,卒入臨淄,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。

参考文献

  • 史記
  • 『史記の事典』(青木五郎、中村嘉弘。大修館書店
  • 島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。 
  • 寺田隆信『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年。 


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