生家・親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:04 UTC 版)
「実成院 (徳川家茂生母)」の記事における「生家・親族」の解説
生家は紀州藩の高家で、石高1000石の桜井松平家血統の久松松平家である。同家は遠江国浜松藩主松平忠頼の三男で、松平定勝の養子となった松平忠勝(長七郎)が駿府城にいた頃の徳川頼宣に引き取られて創始された家で、忠勝はその後、暇を貰って山城国に閑居する。 2代目の重之(源兵衛)は明暦元年(1655年)に切米200石で召しだされて、後に紀州藩の寄合組高家之列となる。安永5年(1776年)に同じ久松系の松平図書家とともに高家に列する。文化7年(1810年)の「家中官録人名帳」に『1000石 高家上座 松平六郎右衛門』とある。家紋は葵、九曜紋。 4代目の忠英(六郎右衛門)は紀州藩大番頭、1000石に昇進。7代目で、実成院の兄である庸(織部)の代で、家茂の伯父であるために3000石に加増され、実成院が江戸城に引き取られると、これに同行して3000石の江戸幕府旗本に転属して幕府新番頭に就任し、織部正を称する。 他方で、紀州藩に残った庸の弟の忠寛(六郎右衛門、祐吾、実成院との兄弟姉妹順は不詳)は兄が旗本に転属すると新規に召し出されて1000石および紀州藩寄合、代々高家之列となり、大番頭に昇進。しかし、第二次長州征伐で出陣し、石見国において長州藩に敗北した責任を取らされて減石となり、やけになった忠寛は淫酒放蕩にふけり没落した(以上は『南紀徳川史・第五冊』より)。
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