理神論論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 13:42 UTC 版)
1695年にロックが『キリスト教の合理性』で、理性の権威と聖書の権威が両立することを証明しようと努めたが、それでも「救済の条件を不当に低めて、異端者が救われるようにした」というとがめを受けた。ロックが知性の力で支持できない教説の地位を下げたことをさらに進め、1696年にジョン・トーランドが『キリスト教は秘蹟的ならず』を著し、キリスト教の本質は道徳の掟に他ならず、後世の教会が設けた教義はキリスト教の信条を独断的に改ざんしたものである、と主張した。キリスト教から秘蹟を追放しようとする彼の企ては、人間の認識というものが神に関する知識におよぶものなのか、それともロックやトーランドの反対者が言うように「神の存在とは理性を超えるもの」なのかという問題を提起し、ヒュームの懐疑主義により「神が存在するかどうかは、人間には認識できない」という形で一時は解決する。 理神論論争における論敵同士は、自然法則を再構成する能力を理性に認める点で一致している。理神論者の多くは、聖書が神に由来するものであることを認めた。つまり立派なキリスト教徒でなおかつ理神論者であることは可能であった。これらの似たもの同士で行われた論争は1750年より以前に終熄し、『政治的正義』の著者で無政府主義者のゴドウィンは「騒ぎから50年たった今では、過去にまるで論争がなかったのと同じである」と言うことができた。
※この「理神論論争」の解説は、「理神論」の解説の一部です。
「理神論論争」を含む「理神論」の記事については、「理神論」の概要を参照ください。
- 理神論論争のページへのリンク