王子誕生とさらなる不和、和解、不審な死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/31 04:22 UTC 版)
「ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)」の記事における「王子誕生とさらなる不和、和解、不審な死」の解説
1566年6月19日、メアリーは難産だったが無事ジェームズ(後のスコットランド王・イングランド王ジェームズ1世)を出産した。しかし、これでイングランドとスコットランド両国の国王になる夢が完全に絶たれたダーンリーは、息子の誕生を喜ばなかった。それどころか、自分の子か疑わしいとさえメアリーに対して言った。ルースベンにより頭に銃を突きつけられ、動いたら殺すと脅迫された上に、目前で寵臣のリッチオを殺されるという恐怖を味わわされたメアリーは、夫への愛情が完全に冷めてしまった。夫婦の修復は困難になっていた。 1567年、ダーンリーは病気にかかった。梅毒だったという説もある。この頃のメアリーは、夫がまたしても陰謀を企み、今度こそ自分を退位に追い込もうとしている事に気づいていたという説があり、パリでも同様の噂が広がっていたという。またこの時期、ビートン大司教も、メアリーに安全のために一刻も早く国王と和解するべきだという手紙を送っている。 メアリーは形だけでも夫と和解する事にし、1月20日にグラスゴーのレノックス伯の館にいるダーンリーに会いに行った。久しぶりに顔を合わせた夫婦は、周囲が驚くほど親しげな様子を見せた。メアリーはダーンリーに、初めはホリルード宮殿への帰還を提案したが、断られたためクレイグミラー城に共に行く事を勧めた。しかしダーンリーは、エディンバラにある旧司祭館のカーク・オ・フィールドで療養したいと言った。彼の要望通り、メアリー一行はカーク・オ・フィールドへと向かい、一行は2月1日にカーク・オ・フィールドに到着した。メアリーはこの館で何時間も病気の夫に付き添い、久しぶりに夫婦は和やかに話をした。 2月9日の夜にはダーンリーの体調も回復したという事で、翌日にはホリルード宮殿に戻れるため、ダーンリーのために送別の宴が開かれた。大勢が飲んだり歌ったりと、誰もが上機嫌だった。そんな時、メアリーがふと急用を思い出した。この日、メアリーは寵臣のバスチアン・パージュと女官のクリスチアーナ・ホッグの結婚式に出席しており、パージュ達とこの後の結婚祝いの舞踏会にも出席すると約束していたのだった。途端にダーンリーは不機嫌になり、約束が違う、今夜はここに泊まってくれと言い始めた。メアリーはそんな夫をなんとかなだめ、新婚夫婦の舞踏会に向かった。ダーンリーの機嫌は直らず、彼は延々とメアリーの悪口を並べ立てた後、近侍のウィリアム・テイラーとワインを飲み干すと就寝した。しかしその日の夜中、何者かによって館は爆破され、1567年2月10日に彼とテイラーの、損傷のない遺体が発見された。
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