王子製紙との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/15 10:13 UTC 版)
1920年代から経営を悪化させていた樺太工業は、それまで後ろ盾となっていた第一銀行にも融資を拒否される状況となり、1930年に社債の償還難に直面した。大川は井上準之助(当時大蔵大臣)などに緊急支援を要請し、日本興業銀行・日本勧業銀行・第一銀行・安田銀行の4社による救済融資を得て経営破綻を回避した。一方営業成績についても、増産した洋紙が不振を極めて王子・富士・樺太工業の3社による値下げ競争が泥沼化していた影響で低迷していた。とはいえ洋紙の生産高については1930年に過去最高の約13万トンとなり、生産高のシェアは約21%に伸びていた。 こうした状況を打開するため大川は樺太工業と王子製紙・富士製紙3社の合同を構想するようになる。王子製紙社長の藤原銀次郎にも打診するが、王子の大株主である三井財閥が樺太工業が抱える膨大な負債を危惧したため藤原は賛同を控えた。1931年、後ろ盾であった渋沢栄一が死去、融資を仲介してきた井上準之助も翌1932年に死去し、大川は財界の協力者を失う。その影響で銀行団からの樺太工業の支援が縮小されていった。 3社の合同は王子製紙が1932年ごろから本格的に乗り出して前進する。同年10月に3社の間で合併契約が仮調印されるが、実質的には王子製紙による吸収合併であった。大川は吸収合併に不満であったが、結果として樺太工業の不振が大川に大幅な譲歩を要求した。1933年5月、合併が実行に移されて、王子製紙は国内市場の8割以上を握る巨大製紙会社(いわゆる「大王子製紙」)となった。 合併に際して、大川は取締役会長への就任を希望していたが、藤原の反対により名誉職の「相談役」に追われた。大川は失意のうちに1936年に死去したという。
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