独立リーグ・新潟時代
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2011年1月24日に新潟アルビレックスBCへの入団が発表される。名球会会員が独立リーグでプレーするのは史上初。また、4月より並行してフジテレビ『すぽると!』の毎週火曜のレギュラー野球解説者も務めることとなった(シーズン開幕後は試合日程に差支えがない範囲での出演)。BCリーグ1年目となる2011年のシーズンは4月16日の開幕戦から登板し、最終的に27試合に登板し、0勝2敗16セーブ防御率2.16でセーブ数はリーグトップであった。 2012年より新潟の選手兼任監督に就任。8月31日、同年限りでの現役引退を表明。9月22日の長岡市悠久山野球場の新潟対信濃戦が引退試合となり、9回二死から登板し原大輝をレフトフライに打ち取った。試合後には「終球式」が行われ、ヤクルト時代にバッテリーを組んだ古田敦也に対して「最後の1球」を投じている。監督としてはBCリーグ初優勝、四国アイランドリーグplus王者の香川とのグランドチャンピオンシップは3連勝し制した。同年限りで監督を退任。背番号22番は、新潟の永久欠番に制定された。
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独立リーグ・新潟時代
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2011年4月8日、新潟アルビレックスBCが正田の入団を発表。前年まで興農で共にプレーしていた高津と再び同じチームでプレーすることとなった。記者会見で「野球が出来ることが一番です」と語っている。2011年のシーズンはシーズンインの準備が遅れた影響で前期日程は0勝4敗防御率3.72の成績であったが、後期は調子を挙げ最終的には年間通して23試合に登板し、3勝5敗1セーブ防御率3.00でチームの後期優勝に貢献し、更に地区チャンピオンシップでも好投し地区優勝に貢献した。11月24日に、東京ヤクルトスワローズが正田と入団で合意したことを発表した、12月1日に年俸800万円(推定年俸)で正式に契約。4年ぶりにNPBへ復帰した。独立リーグからNPBへ復帰したプロ野球選手としては、山田秋親に次いで2人目であった。
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