父・信秀の死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:49 UTC 版)
天文21年(1552年)3月、父・信秀が死去した。 信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった。この逸話はおおよそ事実であったと考えられている。 村岡幹生は『信長公記』において両者が対等に記されていることに着目し、信行と信長はいずれも喪主の立場にあったのではないかと述べる。そして、葬儀の場における信長の奇行は、弾正忠家の明確な後継者を定めることなく死去した信秀に対する不満の現れであると推測している。ただし、谷口克広はこの推測を否定している。 信秀の死後に、当主の居城であった末森城を継承したのは、信行であった。さらに、柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信行は弾正忠家においてかなりの権勢を有していたようである。弾正忠家の家督は信長が単独で継承したとされるが、信秀所領の西部を信長が継承し、東部を信行が継承するという合意があったのではないかとする説もある。 この段階において、信長は弾正忠家の当主として確固たる地位を築いていたわけではなかった。信行は、叔父の守山城主・織田信光らと並び、信長にとっての大きな脅威となっていたのである。 とはいえ、柴裕之によれば、翌年の天文22年(1553年)7月の段階では、信長・信行の両者は協力して弾正忠家の運営にあたっていたと考えられる。信行方の家臣である柴田勝家が、信長と敵対する織田大和守家と戦っていたからである。
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