父・兄の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 04:16 UTC 版)
277年、張軌の次男として生まれた。 父の張軌は涼州刺史として河西の地を治めていたが、308年2月に中風を患って会話が不自由となった。当時、長兄の張寔は洛陽にいた為、張茂は父に代わって州事を執り行った。 313年、南陽王司馬保により従事中郎に任じられ、散騎侍郎・中塁将軍に推挙されたが、全て辞退した。 314年、侍中に任じられて長安に召還されたが、父が老齢であることを理由に辞退した。しばらくして、平西将軍・秦州刺史に任じられた。同年5月、張軌がこの世を去ると、兄の張寔が後を継いだ。 320年、京兆の劉弘が邪道の術を用いて庶民を惑わしており、張寔の周囲の者も彼を崇拝していた。劉弘は張寔を殺して自ら君主となることを目論み、帳下閻渉・牙門趙卬に密かに命を下した。張茂は彼らの計画を知ると、張寔へ劉弘を誅殺するよう忠告したが、敵に先手を討たれて張寔は殺害された。左司馬陰元らは張寔の子である張駿がまだ幼いことから、張茂を後継に立てて涼州刺史・西平公に推挙した。だが、張茂はこの任官を受けずに使持節・平西将軍・涼州牧の任を受けた。また、劉弘を姑臧城の市街に引きずり出して車裂きの刑に処し、張寔殺害の実行犯である閻渉及びその徒党数百人余りを誅殺し、州内に大赦を下した。 同年8月、張茂は張寔の子である張駿を世継ぎにすると公表し、撫軍将軍・武威郡太守に任じて西平公に封じた。
※この「父・兄の時代」の解説は、「張茂」の解説の一部です。
「父・兄の時代」を含む「張茂」の記事については、「張茂」の概要を参照ください。
- 父・兄の時代のページへのリンク