父・兄との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:26 UTC 版)
正室・姫の前を母に持つ朝時は、祖父・時政の名越邸を継承しており、細川重男は時政が朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している。ただし、名越邸継承の時期は不明で、朝時の元服の前年に時政は失脚しており、時政の真意は定かでない。父義時は朝時を一時義絶し、同母弟の重時が承久元年(1219年)に小侍所別当、貞応2年(1223年)に駿河守に任じられて朝時の官位を超越していることから、父子関係は良好ではなかったとする見解もあるが、一方で和田合戦、承久の乱で活躍して義時の遺領配分では大量の所領を与えられ、朝時の名越流は一族内でも高い家格を持つ有力な家となる。 『吾妻鏡』寛喜3年(1231年)9月27日条によると、朝時の名越邸に強盗が入った時、泰時が政務を投げ出して駆けつけ、朝時は感激して子孫に至るまで兄への忠誠を誓ったという。しかし、泰時の死の前後、御家人達に遅れて朝時が出家した事を、都では「日頃疎遠な兄弟であるのに」と驚きと不審を持って噂されている(『平戸記』仁治3年5月17日条)。嘉禄元年(1225年)5月の義時の喪明けは、重時以下の弟が泰時に従って行っているのに対して、朝時は前日に単独で行っており(『吾妻鏡』5月11日条、12日条)、自らが北条の本流という自負を持っていた可能性もある。泰時の後継者を巡って、朝時ら名越一族に不穏な動きがあったと見られるが、詳細は明かではない。その後の名越流は得宗家に常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている。
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