濱野英次郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/20 16:29 UTC 版)
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生誕 | 1880年5月24日 |
死没 | 1952年3月2日(71歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1902年 - 1931年 |
最終階級 | ![]() |
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5月24日 - 1952年〈昭和27年〉3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。
経歴
岡山県出身。1902年(明治35年)12月海軍兵学校(30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。
第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。佐世保鎮守府参謀、軍令部参謀と進み、英国大使館附武官補佐官となる。帰国後「吾妻」副長、軍令部参謀。1922年(大正10年)12月、海軍大佐へ進級。大佐時代は軍令部第二課長、「大井」、「春日」及び「扶桑」艦長を務め、再度の軍令部第二課長、次いで軍令部第二班長に補される。
第二班長在職中の1927年(大正15年)12月1日海軍少将に進級。美保関事件査問委員を務めた[1]。次いで連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、馬公要港部司令官となる。1931年(昭和6年)12月1日中将に進み、同月21日予備役編入となった。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]。
柔道が得意で30期でただ1人の一級であった。またその風貌から"入道"というあだ名があった。
栄典
- 位階
- 1904年(明治37年)3月18日 - 正八位[3]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 従七位[4]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 正七位[5]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 従六位[6]
- 1926年(昭和元年)12月28日 - 正五位[7]
- 1931年(昭和6年)12月15日 - 従四位[8]
- 1932年(昭和7年)1月20日 - 正四位[9]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章・明治三十七八年従軍記章[10]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
- ^ この記述は参考文献に挙げたアジア歴史資料センターの資料による。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」12頁。
- ^ 『官報』第6212号「叙任及辞令」1904年3月19日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第14号「叙任及辞令」1927年1月17日。
- ^ 『官報』第1496号「叙任及辞令」1931年12月23日
- ^ 『官報』第1521号「叙任及辞令」1932年1月28日
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。p8中段
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。p11
参考文献
- アジア歴史資料センター 『神通 蕨及び那珂 葦 衝突事件 査問会の件(1)』(C04015679800)
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第9巻) 第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
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