源泉の一元管理化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 16:01 UTC 版)
温泉地では利用客の増加に伴って各旅館は独自に温泉を採掘し、ポンプで汲み上げた。しかしこうした乱掘は源泉を損なうことになっていった。 1913年(大正2年)頃、浅虫温泉の泉質は硫酸塩泉だった。主要な源泉は8か所で自噴しており、湧出量は毎分約120リットル、泉温は61.5℃から79℃となっていた。 その後、ボーリングによる温泉開発がすすみ、1944年(昭和19年)頃には掘削による源泉は126か所を数えるようになった。1961年(昭和36年)頃からはポンプによる汲み上げも始まり、数字の上では湧出量は増加していった。ところがそのかげでは、1952年(昭和27年)には119か所で自噴していた源泉が、1963年(昭和38年)には11か所しか湧出しなくなっていた。源泉によっては湯の水位が4メートルから5メートルも低くなっていて、地下水や海水の流入のために、源泉の温度の低下を招いた。また、とくに海に近い源泉では泉質の食塩泉化が顕著に進行していた。 温泉地では対策として、1966年(昭和41年)に源泉を一元管理する浅虫温泉事業協同組合を組織、源泉の個人所有をやめた。温泉の総採取量は従来の半分を目標とし、毎分920リットルに制限された。すべての温泉利用者は、この協同組合に対して温泉使用料をおさめて湯の供給を受けることになった。この結果、10年で源泉の回復をみた。このように温泉地で源泉を集中管理する方式は日本で最初期の試みで、その成功例として知られるようになった。
※この「源泉の一元管理化」の解説は、「浅虫温泉」の解説の一部です。
「源泉の一元管理化」を含む「浅虫温泉」の記事については、「浅虫温泉」の概要を参照ください。
- 源泉の一元管理化のページへのリンク