清春紀州へとは? わかりやすく解説

清春(広隆)紀州へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 04:37 UTC 版)

菱川清春」の記事における「清春広隆紀州へ」の解説

清春広隆)が初め紀州現・和山県)へ来た時期は、1833-34年(天保4-5年)頃とされる。『紀伊国名所図会』の版元帯屋兵衛高市志文)が、その挿絵を描かせるために、清春紀州招いたのがきっかけである。『図会』は、計27からなるが、広隆1838年天保9年刊行第三編から参加以降全て広隆挿絵担当している。同年版『平安人物志』では、「藤原清春艇又廣隆 今遊南紀 菱川左衛門欄外大和画」と掲載され、この時期広隆は、京都拠点とする絵師ではあることがわかる。 『図会』での実力認められたのか、この頃から紀州藩10代藩主徳川治宝御用務めるようになるその中で代表的な仕事は、1843年天保14年5月から始まった春日権現験記絵巻模本東京国立博物館制作である。これは前年に命が下った紀州藩国学者長沢伴雄指揮のもと、広隆浮田一蕙冷泉為恭康是、原在明ら5人の京絵師の筆で進められた。この際絵師たちに繋がる人脈持たない紀州長澤伴雄と、京都の一蕙・為恭らのパイプ役務めたのが広隆だったと考えられる1845年弘化2年5月西浜御殿養翠園)に納められた。

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