清春(広隆)紀州へ
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清春(広隆)が初めて紀州(現・和歌山県)へ来た時期は、1833-34年(天保4-5年)頃とされる。『紀伊国名所図会』の版元・帯屋伊兵衛(高市志文)が、その挿絵を描かせるために、清春を紀州へ招いたのがきっかけである。『図会』は、計27冊からなるが、広隆は1838年(天保9年)刊行の第三編から参加、以降は全て広隆が挿絵を担当している。同年版『平安人物志』では、「藤原清春 号雪艇又廣隆 今遊南紀 菱川吉左衛門 (欄外)大和画」と掲載され、この時期の広隆は、京都を拠点とする絵師ではあることがわかる。 『図会』での実力が認められたのか、この頃から紀州藩10代藩主・徳川治宝の御用を務めるようになる。その中での代表的な仕事は、1843年(天保14年)5月から始まった「春日権現験記絵巻」模本(東京国立博物館蔵)制作である。これは前年に命が下った紀州藩の国学者・長沢伴雄指揮のもと、広隆、浮田一蕙、冷泉為恭、林康是、原在明ら5人の京絵師の筆で進められた。この際、絵師たちに繋がる人脈を持たない紀州の長澤伴雄と、京都の一蕙・為恭らのパイプ役を務めたのが広隆だったと考えられる。1845年(弘化2年)5月、西浜御殿(養翠園)に納められた。
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