海外移住年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 13:18 UTC 版)
「アレクサンドル・クプリーン」の記事における「海外移住年」の解説
1919年10月16日、ガッチナは将軍ニコライ・ユデーニチ率いる白軍が掌握した。二週間をクプリーンはユデーニチ軍司令部によって発行された新聞『Prinevsky Krai』(ネヴァの地)を編集した。10月に白軍は西方へと後退、クプリーンはヤムブルクに赴き、ここで妻や娘と合流した。一家はナルヴァ経由でエストニアのレヴェルに着き、12月にフィンランドへ向かった。ヘルシンキに半年あまり滞在後、フランスへ向かい、1920年7月上旬に一家はパリに到着した。 むこう17年間におけるパリ生活で創造力の衰えが見られ、そしてまたアルコール依存症に陥っていた。ロシアから遠く離れたことに嘆息していた彼は引っ込み孤独になった。一家の経済的状況は悪かった。クプリーンは「私は裸一貫で旅発ち... 住む家もない老いた犬のように極貧だ」と古くからの友人イヴァン・ザイキンに宛てた手紙で述べた。このすべてがからみ合い執筆の障害になった。「才能ある男はロシア無しでは厳しかった」と1925年にクプリーンは記者に語っている。 移住したなかでクプリーンの望郷心は作品における回想的な傾向に明白であった。彼はかつて書いていた明るいテーマへ帰り、自身が体験した失った故郷を思い続けていた。 1925年にフランス南西部を訪れ、バイヨンヌ闘牛の鮮やかな物語"Crimson Blood" (1926)に影響を与えた。そしてまた、1927年にガスコーニュやオート=ピレネー県における4つのスケッチからなる"The Blessed South"。それから、1928年に亡命ロシア人作家の会議に出席するためベオグラードを訪問して、ユーゴスラビアで主に都会的な短編を書いた。 パリ時代におけるクプリーンの主要3作は、"The Wheel of Time" (1929)、自伝小説『士官候補生』 (1932)、そして、近所に住む小さな女の子に対する中年を過ぎた教授による愛を描いたロマンチックな物語『ジャネット』(1933)。
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