海外移籍への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:10 UTC 版)
1977年夏に日本代表がドイツにおいて分散合宿を行った際、当時の代表監督・二宮寛はブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)の1.FCケルンの監督であったヘネス・バイスバイラーと親しかったことから、奥寺、西野朗、金田喜稔らをケルンの練習に参加させた。 当時、ケルンはスピードのある左ウイングを探しており、バイスバイラーは同ポジションの奥寺に興味を持った。そこで、練習と称して事実上の入団テストを行ったうえで、帰国の3日前に獲得の希望を伝えられた。後に本人は、もし最初から入団に向けてのテストだと分かっていたら本来のプレーが出来なかったであろうと語っている。 奥寺はドイツ語が出来ないことへの不安などから一度はオファーを断るが、バイスバイラーの強い希望、古河の前監督の川淵三郎、監督鎌田光夫、日本サッカー協会、日本代表の二宮からも移籍を後押しされ、ドイツ行きを決意した。当時は欧州の選手であっても他欧州のクラブへ移籍した場合には代表チームへの招集が難しく、まして試合ごとに欧州と日本を行き来することは考えられない時代であり、欧州移籍により、代表チームから招集される可能性は無くなる事となった。
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