活版印刷術とドイツへの拡散
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「95か条の論題」の記事における「活版印刷術とドイツへの拡散」の解説
ドイツ語版(1557年刊) 怪物の姿をした教皇に立ち向かうルター。教皇は口から水を吐いてルターがもつ灯りを消そうとし、鉤爪でルターの書を引き破ろうとしている。左側では修道院の鼠を連れた贖宥状売りがスズメバチに追われて立ち去ろうとしている。 ところが、何者かがこの文書をドイツ語に翻訳した。ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われている。それがバーゼル、ニュルンベルク、ライプツィヒの印刷業者のもとへ持ち込まれ、当時普及し始めた活版印刷によって複製された。これが短い間にドイツの各地に広がっていき、さらにドイツ語以外にも翻訳されてヨーロッパ中に伝えられた。ルターはこれを「天使ご自身が飛脚であったかのごとくに、14日間のうちに早くも全キリスト教界を一巡した」と評した。 なお、このとき3箇所で印刷されたラテン語の文書はそれぞれ300部ほどが出回ったと考えられているが、そのほとんどは現存しない。ニュルンベルク版は1891年にベルリンの学芸員がロンドンの古本屋で発見し、現在はベルリンに収蔵されている。このニュルンベルク版には、冒頭部に「真理に対する愛から、」で始まる長い題名が付けられている(本節最上部参照。)。バーゼル版では文書にラテン語で「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥の効力を明らかにするための討論)」という題名が付け加えられている。各地の文書はいずれも無記名であり、出版者は不詳である。 このように、新技術である活版印刷術がルターの主張の普及に重要な役割を果たした、という見方は多くの歴史家たちが支持している。とは言っても、当時のドイツの識字率は平均して4パーセントから5パーセント程度だった 。当時の人口とルターの出版物の出版数の推計から逆算すると、実際にルターの著作物を手にしたのは43人に1人程度に過ぎなかった。当時活躍したのは、図像や平易な韻文入りの木版画によるパンフレットと、説教師である。印刷物が果たした役割はそうした説教師を感化するところにあった。
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