治承・寿永の乱における活躍と甲斐源氏の粛清
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以仁王の令旨が東国各地に伝わると、武田信義・安田義定らが挙兵する。甲斐は院政期以降長く院近臣による知行国となっており、治承三年の政変における後白河院の幽閉が影響があったと考えられている。治承4年(1180年)8月には安田義定が波志田山で石橋山の戦いに勝利した大庭景親と戦い、9月には武田信義らが信濃諏訪郡に攻め込んで影響下に置いた(信濃で競合する木曾義仲は、西上野に進出した後、横田河原の戦いを経て北陸道に進出する)。その後、武田信義らは鉢田の戦いを経て駿河に進出し、源頼朝と提携した富士川の戦いで平維盛らの平家軍に勝利した。その後、武田信義は駿河を、安田義定は遠江を実効支配し、頼朝や義仲と並ぶ東国の武家棟梁の一角を占めるようになる。また、治承4年(1180年)末に蜂起した近江源氏とも連絡を取っていたことも『玉葉』に記載されている。 安田義定は寿永2年(1183年)に義仲とともに入京し、従四位下・遠江守に叙任されている。元暦元年(1184年)には源範頼・義経の軍勢に安田義定・一条忠頼が加わり、粟津の戦いにおいて義仲を滅亡させる。さらに同年の一ノ谷の戦いでは義定・武田有義・板垣兼信らが平氏追討に参加している。有義はさらに範頼の軍勢に属し西国へ出陣している。 一方、この頃には頼朝による甲斐源氏の粛清が開始され、同年には一条忠頼が鎌倉において誅殺されており、その頃に鎌倉勢による甲斐・信濃への出兵がなされた(『吾妻鏡』)。
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