江川崎村成立以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 21:25 UTC 版)
後の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれた地域の一部である。下山郷は伊予国に占領されていたが、文明元年8月11日(ユリウス暦:1469年9月16日)に土佐国の一条教房が奪還したことが『大乗院寺社雑事記』に記されている。下山郷で産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国堺へ出荷された記録もある。土佐一条氏は、一条兼定の代に土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となった。長宗我部元親は下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施した。 川崎村は、下山郷の本村として下山とも呼ばれ、江戸時代には専ら下山村と呼ばれた。江川村の権谷は、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となった。江川村には、江川城と糠ノ森城の2つの城があり、用井にも2つ城があったとする記録があるが、用井の城の詳細は明らかでない。 関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となった。江戸時代を通して江川村・下山村・長生村は土佐藩の配下にあった。西ケ方村・半家村・用井村は土佐藩領から寛文5年(1665年)に土佐中村藩領に変わり、元禄2年(1689年)の幕府領土佐藩預地を経て元禄9年(1696年)に土佐藩領に復している。下山郷は上分と下分に分かれ、江川・下山・長生・半家の4村が上分、その他の村が下分とされた。下山郷は伊予国との交流が深く、方言や家屋の様式に類似性が認められ、婚姻が結ばれることも多かった。江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生した。紙漉きは長生・半家でも行われた。下山は舟運の拠点で、四万十川下流の下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んであった。半家村は、平家の落人が開いた村という伝承があり、伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村」として山内豊敷・山内豊資から米を下賜されている。 1874年(明治7年)、江川と下山に小学校が開校する。
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