江川太郎左衛門との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:15 UTC 版)
江川太郎左衛門配下の韮山の商人と管轄地の大磯の商人等が、二宮尊徳の指導を受けて、傾いた身代を復興させたことを知った江川太郎左衛門英龍は、自身配下の多田弥次右衛門救済を頼むべく、天保11年(1840)6月6日に金次郎へ「御出で下され候様幾重にも願ひ奉り候」という手紙を書き、それを受け取った6月8日に二宮尊徳と豊田正作を含む一門数名を招待し、数日に亘って懇談している。 江川の用件は伊豆韮崎の豪商で吹替金銀引替御用という役目を勤める多田家が4,823両の借金と1,389両の上納金不足で幕府御用からもはずされ破綻しかかっているというのであった。尊徳は多田家救済に、報徳金1,389両を多田家が持つ田畑42町5反のうちの31町7反を担保に貸付け、畑から上がる小作料のうちから年々416俵ずつを年賦償還にあてるというかたちで行われた。(「二宮尊徳」守屋志郎著248~250頁要約)
※この「江川太郎左衛門との関係」の解説は、「豊田正作」の解説の一部です。
「江川太郎左衛門との関係」を含む「豊田正作」の記事については、「豊田正作」の概要を参照ください。
- 江川太郎左衛門との関係のページへのリンク