江の島合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:15 UTC 版)
鎌倉府再興後も、成氏の元に集まった旧持氏方の武将・豪族等と、山内・扇谷上杉家の両上杉氏との緊張関係は改善されなかった。宝徳2年(1450年)4月には、山内上杉家家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家家宰の太田資清が成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生する。成氏は鎌倉から江の島に避難し、小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らの活躍により、長尾・太田連合軍を退けた。なお、この時上杉方の一部も成氏に加勢している。従って、この襲撃は長尾・太田両氏が主導したが、上杉氏の本意ではなかったと考えられる。 難を逃れた成氏は、上杉憲実の弟である重方(道悦)の調停により、合戦に参加した扇谷上杉持朝らを宥免したが、長尾景仲・太田資清との対決姿勢は崩さず、両者の処分を幕府に訴えた。幕府管領畠山持国は成氏の求めに応じて、上杉憲実・憲忠に対して、鎌倉帰参を命じ、関東諸士及び山内上杉家分国の武蔵・上野の中小武士に対して成氏への忠節を命じた。また、江の島合戦の成氏側戦功者への感状を取り計らうなどしたが、長尾・太田両氏への処罰はあいまいにされた。結局、成氏自身は8月4日に鎌倉へ戻り(『喜連川判鑑』)、上杉憲忠は10月頃に関東管領として鎌倉に帰参した(『鎌倉大草紙』)。
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