民家イズバの発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 19:53 UTC 版)
古代スラヴ人の住居は、貴族的な戦士層と農耕や牧畜を営む生産者層とで違う様式を持っていた。崖上などに城壁をめぐらせて建設する城塞には戦士層が住み、生産者層は、川岸近くの台地に10戸から20戸の半地下住居群を立てて暮らした。 半地下式の住居は、8世紀〜10世紀のスラヴ人の遺跡で確認されている。1.5メートル四方の大きさのものが多い。 定住をはじめたスラヴ人は、暖炉を兼ねたかまど(ペチカ)のまわりを住まいとした。住居は二部屋に発展し、「セーニ」と呼ばれる土間が付属するようになった。ペチカのある温かい居間はイズバ(Изба)と呼ばれ、イズバはやがて、農家など、民家全体の呼称にもなった。これら二部屋式の住居は、10世紀ごろの東・西スラブ人の住居跡ですでに見つかっており、現在の民家にも使われている。 やがて暖房のない第3の部屋が登場する。納屋や息子夫婦の寝室として使われ、クレーチと呼ばれた。のちに、さまざまな部屋や付属施設が作られるようになる。ロシア北部のイズバは、高床式が主で、木の切り株を礎石として利用することもあった。厳しい寒さをしのぐため、敷地内の住居以外の空間を家に組み込み、納屋と同じように使った。場合によっては井戸も一つの屋根の下に収めた。暖房効果を高めるため居間は極限までコンパクトになった。また北ロシアやシベリアでは防寒用に家の周りに盛り土をした。 ウクライナなど温暖な南スラブでは、セーニが存在せず、民家はハータと呼ばれる。床と地面は同じ高さで、壁には石や練り土や粘土、煉瓦の家が使われた。
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