比企尼の猶子とは? わかりやすく解説

比企尼の猶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:06 UTC 版)

比企能員」の記事における「比企尼の猶子」の解説

『愚管抄』は能員を阿波国出身とする。源頼朝乳母務めた比企尼は、頼朝流人となったのちも20年支援続けた忠節報いとして甥である能員を猶子として推挙し比企尼実子である比企朝宗没する比企氏惣領継承した寿永元年1182年8月12日鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて、北条政子頼朝嫡男万寿(のちの源頼家)を出産比企尼の縁によって能員は頼家乳母父に選ばれている。頼家誕生にあたって最初乳付け儀式比企尼次女河越重頼室)が行い、比企尼の三女平賀義信室)、能員の妻も頼家乳母になっている。 能員はその後頼朝信任厚い側近として仕える。 元暦元年1184年5月源義高残党討伐のため信濃国出陣同年8月平氏追討従軍元暦2年1185年3月壇ノ浦の戦い平氏滅んだのち、捕虜として鎌倉送られ平家棟梁平宗盛頼朝御簾越し対面した時、頼朝言葉伝え役目をしている。上野国信濃国守護信濃国目代兼任)となり、文治5年1189年)の奥州合戦には北陸道大将軍建久元年1190年)の大河兼任の乱には東山道大将軍として出陣同年頼朝上洛した際、右近衛大将拝賀随兵7人の内に選ばれ参院供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝御家人10人の成功推挙与えられた時、その1人に入り右衛門尉に任ぜられる。 建久9年1198年)、娘の若狭局頼家側室となり、長男一幡を産むと外戚として権勢振った正治元年1199年1月頼朝死去したのち、十三人の合議制1人加えられ梶原景時排斥にも荷担梶原景時の変)。

※この「比企尼の猶子」の解説は、「比企能員」の解説の一部です。
「比企尼の猶子」を含む「比企能員」の記事については、「比企能員」の概要を参照ください。

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