歴史的位置
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「外国語学校 (明治初期)」の記事における「歴史的位置」の解説
天野郁夫の指摘によれば、結局のところ中途で挫折したとはいうものの、明治初期の官立外国語学校(英語学校)は、全国に配置されたという点から見て、その後の「大学予科」としての旧制高等学校の先駆と見ることができる。
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歴史的位置
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「東京大学 (1877-1886)」の記事における「歴史的位置」の解説
帝国大学成立以前のこの「(旧)東京大学」の時期には、工部省には工部大学校、司法省には司法省法学校、開拓使には札幌農学校、内務省には駒場農学校があり、各官庁は独自に専門官僚を養成していた。そしてこの時期の東京大学の性格としては、教員養成所のような性格であり、卒業生で行政官になる者はあまりおらず、多くが学校の教員(医学校教員を含む)となっており、実質的には「専門学校」(学制二編追加により規定された高等教育機関であり、後年の専門学校令準拠の旧制専門学校とは異なる)に相当する機関に過ぎなかった。さらに行政官になった数少ない卒業生の相当数が、東京専門学校などの反政府的と目される私学(法律学校)の教員に転じていった(このため設立当初の東京専門学校には政府によりさまざまな迫害が加えられることになった)。また各省の専門官僚養成学校にも優秀な学生が集まっており、この時代の東京大学が高等教育機関の頂点だったわけではない。[要出典] 優秀な学生がこの学校に集中するようになるのは、司法省法学校と工部大学校を吸収し、1886年、帝国大学令による「国家ノ須要」を目的とする帝国大学に改組された後である。また卒業生が就職先として行政官に殺到するようになるのは、1887年に官僚任用試験制度が制定され帝国大学卒業生が優遇されてからである。
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