歴史学的論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 09:29 UTC 版)
「エルナンド・デ・ソト」の記事における「歴史学的論争」の解説
デ・ソトの遠征の正確なコースは、歴史家や地方政治家の間で議論の的となる。もっとも広く使われているデ・ソトの旅程のバージョンはアメリカ合衆国議会のものである。人類学者のジョン・R・スワントンを議長にした委員会は、「アメリカ合衆国のデ・ソト遠征任務の最終報告」を1939年に発行した。遠征コースの最初の部分(アラバマでのデ・ソトのマビラの戦いまで)は今日詳細のみが議論されており、マビラ以降のデ・ソトの旅程は争われている。議会の出したデ・ソトの旅程は、そこからミシシッピ州、アーカンソー州、テキサス州を通っている。他の説では、マビラからテネシー州、ケンタッキー州、インディアナ州を通る北のルートとされている。 考古学的な復元とインディアンの口承の歴史が考察されだしたのはごく最近である。しかし、新しい建物の建設や、出現物とその叙述との間に450年以上の年月が経過していることもあり、調査は困難である。遠征に決定的に関連している唯一の場所は、現在のフロリダ州タリャハシーのフロリダ州都庁舎のおよそ1マイル東に位置する、フロリダ州アンハイカのアパラチー族の村にあるガバナー・マーティン遺跡である。1987年3月に考古学者のB・カルヴァン・ジョーンズが発見した。 最新の説は、遠征隊の生存者でありデ・ソトの秘書をしていたロドリゴ・ランヘルと、デ・ソトと共にいた王の代理人、ルイス・エルナンデス・デ・ビエドマの、ふたつの日記を基にしている。それらの中ではデ・ソトの旅程を、出航したキューバのハバナ、陸沿いに進んだメキシコ湾、2年目の間に到達した大西洋、その後すぐに越えた高い山々、そして旅程にあったその他のいくつかの地理的特徴(大きな川や沼)に関して、合間をあけた記録として記述している。地球の地理はデ・ソトの時代から変化していないことを受け、現代の地形学的知識に基づいて分析されたこれらの日記は、旅程をより細かくしている。
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