武家・公家の入れ替わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)
「建武の新政」の記事における「武家・公家の入れ替わり」の解説
第82代後鳥羽院の御宇造の時代は公家の天下であったが、1185年(文治元年)に平氏から源氏へ政権移行が行われると、総追捕使が支配力を強めていき、諸国には武家の守護が立てられ、神宮や社寺、旧来の武家や公家の荘園には地頭が置かれるようになった。公家の五摂家などと繋がった新興の武家が勢力を強め、反乱を起こした古来の武家も次第にその傘下に入っていった。 ただ依然として公家天下の時の国士や公家、寺社の領造は変わらずにあったので旧来の公家はさのみ衰微せず、国士も所領の地頭御家人として地位を保っていた。どこの国でも地頭御家人を直人と呼び、鎌倉9代の間はその方式であった。 ところが、建武の新政のときから古い法が捨てさられ、公家の知行や寺社領がみな諸軍勢に分け与えられ、地頭御家人も養子を取らざるを得ない状況になるなどして武家の家人となっていった。足利将軍の時代も同様であったが、これが織田信長、徳川家康の時代になると、古来の武家・公家の存在感は薄くなって、それまでの功績や俗姓すら分からないような新興の武家が所領を維持していた。
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