構築主義への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 19:53 UTC 版)
構築主義は本質主義との対立から生まれたと言って良い。本質主義は、デリダなどいわゆるポスト構造主義の研究者が批判する対象である。デリダは脱構築 (deconstruction) を主張し、社会の中の本質的な現実や、社会現象や意味は、人間が作り上げたものにすぎず、社会の中には本質的な実在は存在しないと主張する。しかしこのような立場では、多くの社会現象は具体的に分析不可能となり、考えること自体が無意味となってしまうと言える。 また、認知科学が尺度構成法や心理測定法という方法論をもとに1970年代のアメリカで大きく発展したのに対し、この主義は具体的な研究手法は何もない。ただ単に、研究者が自分の個人的体験という、偏ったデータをもとに考えるだけである。そのため限界のある研究法だとする批判が存在するし、この研究手法は既に時代遅れで、アメリカ社会学会では廃れつつあり[要出典]、具体的な測定法や分析法はとくになく、極めて抽象的な哲学的議論のみとの批判がある。 これに対して、ケネス・J・ガーゲンは構築主義とは一つの観察方法なのであり、社会の全てが幻想であるとか実在は存在しないといった議論ではないと主張している。構築主義の立場は要するに「本質的で客観的な真理」は人間にとっては直接観察不能であり、何らかの枠組みによって観察されざるをえないのであるから、問題はどのような社会的枠組みに依拠しているのかといった足場に向かう議論であって、こうした議論は「実在それ自体」を否定しているわけではなく誤解であると反論した。
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