梅田雲浜とは? わかりやすく解説

梅田雲浜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/18 15:31 UTC 版)

梅田 雲浜
1850年代
人物情報
別名 通称:源次郎
:湖南、東塢
生誕 文化12年6月7日 (1815-07-13) 1815年7月13日
日本小浜藩
死没 安政6年9月14日 (1859-10-09) 1859年10月9日(44歳没))
日本江戸
国籍 日本
両親 父:矢部義比
学問
時代 江戸時代末期(幕末
学派 崎門学派
研究分野 儒学
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梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日1815年7月13日〉- 安政6年9月14日1859年10月9日〉)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者[1]通称は源次郎[2]。名は義質(よしただ)、のちに定明(さだあきら)[2]は雲浜のほか、湖南、東塢がある[3]

生涯

文化12年6月7日(1815年7月13日)、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生[4]。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという[4]

はじめ藩校・順造館に学ぶ。天保元年(1830年)には[要出典]江戸に出て藩の儒学者・山口菅山から崎門学を学んだ[2]

その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ[2]大津に湖南塾を開いた[5]。大津では同じ闇斎学派の上原立斎にも学び、立斎に見込まれてその娘・信(しん)を娶っている[6][1]

天保14年(1843年)、京都へ上り藩の塾となっていた望楠軒の講主に迎えられる[4]

ところが、嘉永5年(1852年)海防の強化を建言したことが藩主・酒井忠義の怒りに触れ藩籍を剥奪されてしまう。「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」という和歌は、この時期に詠んだとされる[4]。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。やがて安政5年(1858年)、日米修好通商条約への朝廷の勅許拒否・その後の戊午の密勅等一連の事案が発生すると、首謀者と目された雲浜は京中の邸にて、大老井伊直弼による安政の大獄で最初の捕縛者となった[2]。この間、安政2年に千代と結婚している[7]

捕縛後は京都から江戸に送られる[4]。取調べでも箒尻(ほうきじり)で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らなかった[要出典]。江戸では小笠原忠嘉の邸に預けられる[8]。安政6年9月14日(1859年10月9日)に幽閉中に病死した[4]享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある[要出典]

梅田雲浜之碑
霊山護国神社

雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。安祥院近くにある京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられている。[要出典]

実業家としての側面

幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて「大困窮進退是れ谷(きわ)まり、一歩も動き候事も出来がたく候」と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。[要出典]しかし安政3年に始めた長州大和間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い烏丸御池に居を構えており「暮し向き裕かで、訪客絶えず」と評されるほど成功した[9]。それほどの転身を果たしつつも最期まで志士達の中心に在り続け、またその経済基盤および長州とのつながりを最大限に活用し、尊皇攘夷の運動を推し進めまた多くの志士を経済的に支援した。

登場する作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ a b 歴史散歩 その(2)神出 - 園城寺(三井寺、「車路。歴史の重みと貴人を乗せた牛車が行く」の箇所を参照)
  2. ^ a b c d e 井上勝生. "梅田雲浜". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年12月2日閲覧
  3. ^ "梅田雲浜". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年12月2日閲覧
  4. ^ a b c d e f 三井美恵子. "梅田雲浜". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2023年12月2日閲覧
  5. ^ "梅田雲浜". 百科事典マイペディア. コトバンクより2023年12月2日閲覧
  6. ^ ★上原立斎★ - 高島市立図書館(高島ものしり百科・先人たち)
  7. ^ "梅田千代". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2024年1月13日閲覧
  8. ^ "梅田雲浜". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年12月2日閲覧
  9. ^ 服部之総「志士と経済」(1934年)『黒船前後・志士と経済』岩波書店岩波文庫〉1981年、[要ページ番号]

外部リンク





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