染織祭の中止と時代祭への継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 21:33 UTC 版)
「染織祭」の記事における「染織祭の中止と時代祭への継承」の解説
1937年7月に発生した盧溝橋事件を皮切りに日中戦争が激化し、豪華絢爛な時代衣装行列は”未曾有の事変下であるに鑑み”取り止めとなり、以後復興することはなかった。また染織祭自体も祭祀のみは1951年まで続いた後は途絶え、染織祭はいつの日か人々の記憶からも消えてしまった。 戦争の気運で同じく取り止めになっていた時代祭は戦後まもなく復興し、染織祭の時代衣装行列における「女性の風俗行列」という意思は、戦後の時代祭の行列に反映された。1950年(昭和25年)、猪熊兼繁(猪熊浅麻呂の息子)、吉川観方、江馬務らの風俗考証によって、「桃山時代婦人列」(染織祭「醍醐の花見」)、「鎌倉時代婦人列」(染織祭「女房の物詣」)、「藤原時代婦人列」(染織祭「やすらい花踊」)の3つの女性風俗行列が新たに加えられ、その際に用いられたのは染織祭の時代衣装であった。以後、時代祭は次第に女性扮装行列を充実させ、装束も自前で誂えられたが、その際に参考にされたのも、染織祭の時代衣装行列であった。
※この「染織祭の中止と時代祭への継承」の解説は、「染織祭」の解説の一部です。
「染織祭の中止と時代祭への継承」を含む「染織祭」の記事については、「染織祭」の概要を参照ください。
- 染織祭の中止と時代祭への継承のページへのリンク