染織家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:01 UTC 版)
昭和21年(1946年)、終戦直後、結婚の翌昭和22年(1947年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地解放・宅地解放などにより、沢山の借家を持っていた吉田家も伊藤家もそれらは皆無くなっていったのである。佐久子にとっても、「たすく」にとっても新婚早々、急激に減収し、はじめて経験する窮乏生活となったのである。 吉田佐久子と結婚したあと、倉吉市東仲町に「諸国民芸の店 - 風土」を開く。店には柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司達の指導した湯町や牛の戸などの器や諸国の民芸品、地元の若手芸術家が持っていた品の他、近くの窯場で「たすく」が絵付けをしたものが並んだ。 民芸品店を営業する中で、絣や貴重な風通織の布や裂も集まってきて、織物への興味が更に深まっていき、地元の宍戸実治に勧められ木綿絣を、吉田正の母に高機の指導を受け機織りをはじめる。昼間は民芸品店、夜は織物の毎日が始まったのである。 翌年、国画会工芸部に織物を出品し、その後数年間出品をする。昭和25年(1950年)に「たすく」は倉吉町立西中学校教師となり、夜はいつも二人で遅くまで機織りをする毎日であった。
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