染織事業の功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:13 UTC 版)
1885年(明治18年)、フランスから帰国した稲畑は、明治政府から農商務技師の誘いを受けるが、これを断り、京都で京都府染工講習所の教授になる。1887年(明治20年)、京都織物会社創設に尽瘁し、同社技師長に挙げられる。洋式の最先端の染色技術の普及に努めた。 1890年(明治23年)、フランスの染料メーカー、サンドニー社の総代理店として京都に「稲畑染料店」(1893年(明治26年)に「稲畑商店」に社名変更、後の稲畑産業)を開業。合成染料の直輸入貿易を行った。 1895年(明治28年)、海外からの輸入製品だったウール素材の毛斯綸(もすりん)の国産化を目指し、「毛斯綸紡織」を設立。1897年(明治30年)、大阪に稲畑染工場を設立し、最新技術を用いた染色加工業に進出。特に海老茶色は「稲畑染」と呼ばれ、当時の女学校の制服の袴にも採用された。また、日露戦争の際には軍服用のカーキ染を考案して、国家に貢献した。 その後「稲畑商店」は、天津を皮切りに、ブリュッセル、上海、奉天、ジョクジャカルタ、ソウル、青島、ハノイ、上海、バタビア、大連、済南などに拠点を開設、海外進出を積極化させた。 1916年(大正5年)、政府は染料の国産化を促すため「日本染料製造株式会社」(1944年(昭和19年)に住友化学工業と合併)を大阪に設立。稲畑は1926年(昭和元年)に同社社長に就任。
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