果されなかった幕府、薩摩藩の狙い
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「果されなかった幕府、薩摩藩の狙い」の解説
島津家久の指示を受け、琉球は1611年11月に貢物の半量を進貢するとして進貢使を、そして1612年1月には残り半量を進貢する使者が派遣され、両者は福州で合流した。ところがこの両使者を迎えた明側は態度を硬化させた。まず琉球が日本の手先となって使節を派遣してきているのだと断ずる意見が相次いで上奏された。そして薩摩側の通商要求と、明が拒絶した場合に武力行使を示唆していることについても明側に伝わり、明側の態度を著しく硬化させた。結局1612年11月、万暦帝は琉球侵攻での疲弊を考慮するとの名目で、今後10年間は進貢を行わないよう命じた。 1613年春、島津家久は「与大明福建軍門書」という文書を起草させている。これは尚寧が福建の代表者に宛てる手紙で、内容的には海上の島での出会貿易、琉球での出会貿易、室町時代と同様の勘合貿易のいずれかを明に選択させ、交易を拒否する場合には明に数万の日本軍が侵攻するとのもので、1611年10月の、家久から尚寧に宛てた指示とほぼ一致している。これは琉球を通じての明との貿易交渉がなかなか捗らない家久の焦りが見られる。 この「与大明福建軍門書」が明側に渡った形跡は無い。1613年7月、明から使者が帰国し、万暦帝の今後10年間は進貢を行わないよう命じた事実が伝えられた。琉球側は大きな衝撃を受け、早速明に再考を促す使者を送った。琉球を仲介者にして強硬に明に対して通商を求める幕府と薩摩藩のやり方は、通商回復どころか琉球の朝貢貿易も10年間ストップさせられるという最悪の結果を招いた。さすがの島津家久も1615年3月には尚寧に明と琉球との関係改善に努めることが大切だとの書状を送り、10年間進貢停止の再考を求める琉球使節の訴えが退けられたことを知った1615年9月には、琉球を慰める書状を尚寧に送っている。
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