果されなかった幕府、薩摩藩の狙いとは? わかりやすく解説

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果されなかった幕府、薩摩藩の狙い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「果されなかった幕府、薩摩藩の狙い」の解説

島津家久指示を受け、琉球1611年11月貢物半量進貢するとして進貢使を、そして1612年1月には残り半量進貢する使者派遣され両者福州合流した。ところがこの両使者迎えた明側は態度硬化させた。まず琉球日本の手となって使節派遣してきているのだと断ずる意見相次いで上奏された。そして薩摩側の通商要求と、明が拒絶した場合武力行使示唆していることについても明側に伝わり、明側の態度著しく硬化させた。結局1612年11月万暦帝琉球侵攻での疲弊考慮するとの名目で、今後10年間は進貢行わないよう命じた1613年春、島津家久は「与大明福建軍門書」という文書起草させている。これは尚寧福建代表者宛てる手紙で、内容的に海上の島での出会貿易琉球での出会貿易室町時代同様の勘合貿易いずれか明に選択させ、交易拒否する場合には明に数万日本軍侵攻するとのもので、1611年10月の、家久から尚寧宛てた指示とほぼ一致している。これは琉球通じての明との貿易交渉がなかなか捗らない家久焦り見られる。 この「与大明福建軍門書」が明側に渡った形跡は無い。1613年7月明か使者帰国し万暦帝今後10年間は進貢行わないよう命じた事実伝えられた。琉球側は大きな衝撃を受け、早速明に再考促す使者送った琉球仲介者にして強硬に明に対して通商求め幕府薩摩藩やり方は、通商回復どころか琉球朝貢貿易10年ストップさせられるという最悪結果招いた。さすがの島津家久1615年3月には尚寧に明と琉球との関係改善努めることが大切だとの書状送り10年進貢停止再考求め琉球使節訴え退けられたことを知った1615年9月には、琉球慰め書状尚寧送っている。

※この「果されなかった幕府、薩摩藩の狙い」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「果されなかった幕府、薩摩藩の狙い」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

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