松下村塾・奇兵隊とは? わかりやすく解説

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松下村塾・奇兵隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 10:12 UTC 版)

吉田稔麿」の記事における「松下村塾・奇兵隊」の解説

天保12年1841年)閏1月24日1841年3月16日)、萩藩松本村新道軽卒といわれる十三組中間大組中間)の吉田内の嫡子として生まれる。稔麿の生家吉田松陰生家近所で、松陰神社近く吉田稔麿誕生の地との石碑がある。 稔麿は、松陰以前久保五郎左衛門教えていたころの松下村塾通っていた。稔麿は無駄口利かず眼光鋭い少年であったという。 また、松陰禁固を命ぜられて実家戻っていた時に増野徳民誘われて吉田松陰松下村塾入門し兵学究めた吉田稔麿増野徳民2人松浦松洞加えて三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮むきゅう)」と称したことに由来する松陰才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容していた。 安政5年1858年)に松陰下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰江戸送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向詳細不明であるが、万延元年1860年10月脱藩。しかし、文久2年1862年)にはその罪を許されている。また、同年10月には松陰慰霊祭初め参加した文久3年1863年6月高杉晋作創設した奇兵隊参加7月屠勇隊創設8月朝陽丸事件では烏帽子直垂姿で船に乗り込み説得成功する。またこの年に稔麿と改名した

※この「松下村塾・奇兵隊」の解説は、「吉田稔麿」の解説の一部です。
「松下村塾・奇兵隊」を含む「吉田稔麿」の記事については、「吉田稔麿」の概要を参照ください。

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